投稿日:2006-11-30 Thu
税務署や郵便局、銀行などをあちこち巡った一日。どこでもとにかく待たされた。おかげで中村紘子の本を読み終える。音楽コンクールの歴史を振り返りながら、その意義を探り魅力を読者に訴える本。いつもながら明晰な文章でわかりやすかった。用事が一段落した後有隣堂へ。たまっていた図書カードで何冊か購入。いつ読むことができるのやら。帰宅して「廃墟大全」中の小池寿子論文「廃墟のメタモルフォーズ―パリ、サン・ジノサン墓地」と岡田哲史論文「18世紀ローマの廃墟をめぐる覚書」を読んだ。
投稿日:2006-11-30 Thu
「いいなづけ」下巻を一気に半分まで読み進める。まあペストの流行について延々と説明した章を斜め読みしたせいなんだけど。「レ・ミゼラブル」にも確かパリの下水道の発達について延々と説明した章があったなあ。ストーリーの進行を完全に止めてしまっているんだけど、舞台となっている社会の理解を深め、作品世界に“厚み”をもたらしている面もあるんだよな。帰宅途中で立ち寄ったジムでバイクこぎながら、中村紘子「コンクールでお会いしましょう」を読む。彼女の演奏にはあまり関心が無いのだけど、エッセイは好き。日本のクラシック受容について多くのことを教えてくれた。
しかし表紙の写真は見事に“年忘れ”(今週の週刊少年マガジンの「さよなら絶望先生」を参照のこと)してるなあ。
投稿日:2006-11-28 Tue
昨日『廃墟とは「物語」の0地点なのだろうか』なんてことを書いたのだが、今日読んだ「廃墟大全」中の四方田犬彦による論文「廃墟を前にした少年」の中に“廃墟はそれと認められた瞬間から、つねに物語に飢えているのだ。神話から歴史まで、またその場所を訪れて夢想に耽った芸術家たちの生涯の物語という、メタレヴェルの物語まで、ありとありゆる物語を呼び寄せる”という一節があった。昨日自分が言いたかったことをより分かりやすく記述している。私の直感もまんざらではないなあ、なんてちょっと自慢してみたりして。たまには普段読まないタイプの漫画を読んでみようと思い、入江亜季の「コダマの谷」と「群青学舎」を購入。これは著者の初単行本で今年の夏に同時に刊行されたもの。執筆時期が古い「コダマの谷」は(出来のいい)習作といった感があるが、「群青学舎」は絵も話の運び方も格段に進歩していて読み応えがある。言葉は最小限にとどめて「絵」で語ろうという姿勢が読者にひしと伝わってくるのが良い。
投稿日:2006-11-27 Mon
昼休みにマンゾーニ「いいなづけ」下巻を読み始める。今週中に読了したいところ。帰りの電車では「廃墟大全」を読む。小谷真理「瞼の裏の宮殿」、滝本誠「建築の「廃墟」、人体の「廃墟」」、飯沢耕太郎「死せる視線―写真の廃墟解剖学」を読了。いずれも小論ながら刺激的で、読んでいる途中にあれこれと連想が働く。廃墟とは「物語」の0地点なのだろうか。だから石川淳は長編「狂風記」冒頭に廃品の山の光景を描いたのだろうか、そして最終部においてそこに主人公達が回帰していくのも同じ理由だろうかなどと考えながら帰宅。
ちなみに「狂風記」の冒頭部は以下の通り。
なんといふ木か、途方もなく大きい木が一本、もろに横だふしに、地ひびき打つて……その木はだいぶまへから日でりにも風雨にもそこに野ざらしになつてゐるやうだから、たつたいま落ちかかつたわけではないが、それでもくろぐろとした幹はうなりを発するまでにすさまじく、あふむけにのけぞつて、大枝も小枝もなく、葉の一つすらなく、手足をぶつたぎられた巨人の胴体が泥まみれに、ほとんど血まみれに、投げ出されたといふけはひであつた。胴体のなかばは腐蝕した物質の中にうづもれてゐる。根はまだ残つてゐるのか、すでに伐りとられたのか、かくれてゐて見えない。といふのは、ここは平地ではないからである。下からは見あげるほど、いちめんにがらくたの堆積。紙屑、野菜屑、あきびん、あきかん、つぶれたダンボール、さびついた自転車、ぶつこはれの冷蔵庫、ぽんこつのカー、狐の死骸、犬の死骸、もしかすると行きだふれの人間の死骸まで下積になつてゐても不思議でなく、その他ごたごた、やけにぶちまけたのが高く盛りあがつて、それは廃品の山であつた。そのでこぼこの山なみの、うつちやつておけば、ぷつぷつ煙を吐き、やがて火も吹き出しさうなてつぺんに、ずつしりわだかまつた大木のすがたは、おのづとにらみがきいて、この山の主といふいきほひの、殺されてもくたばらぬ貫禄に見えた。
投稿日:2006-11-26 Sun
今日は12:00から19:00まで池袋パセラで洋楽オンリーのカラオケ・オフ会。行きの電車では谷川渥監修「廃墟大全」を読む。題名通り“廃墟”に関する様々な論文を集めたもの。とりあえず巽孝之「ケープ・コッドの渚で」、永瀬唯「喪失の荒野「新世紀エヴァンゲリオン」」の2論文を読了。
「ケープ・コッドの渚で」はソロー〜フィッツジェラルド〜バラードへとつながる文学的系譜を「漂着物拾い(レッカー)」をキーワードに簡潔に描写したもの。もっと論を発展して欲しいところで終わってしまうのが残念。冒頭、論の枕として紹介されたレイ・ブラッドベリの短編がとても面白そうなのだが、実際に読むとどうも相性が悪いんだよな、ブラッドベリとは。
永瀬論文は、エヴァンゲリオンについてほとんど無知な私でもそれなりに興味深く読めた。セカイ系とやらはここから始まっているのかなあと思ったりもしたが、これは自分の中では判断する材料が少なすぎる。
池袋には30分程早く到着したので、パセラ近くの漫画専門の書店で時間つぶし。諸星大二郎の短編集を購入する。「暗黒神話」「孔子暗黒伝」も買っておけばよかったか。
カラオケ終了後はまっすぐ帰宅。流石に疲れが出て帰りの列車ではずっと寝たままだった。
投稿日:2006-11-25 Sat
昨日はムーンライダーズのコンサート。出勤時から気持ちははやり、新しい本は落ち着いて読めそうにないので、松浦寿輝「散歩のあいまにこんなことを考えていた」を再読する。松浦にしては比較的軽い調子で書かれたエッセイを集めたこの本は、彼らしい世界の細部への繊細な感受性とある種のおおらかさが同居していて、或る程度の読み応えを確保しつつリラックスさせてくれる、私にとってありがたい一冊なのである。例えばクリップやマッチといった「小さなもの」に対する愛着を綴った文章や、「冬」という漢字の下部にある「、、」が好きだと表明し、点をうつことは「或る力を紙の表層に伝え、また同時に、その反動を自分のペン先に受け取り直すという、微かな、しかし確実なコミュニケーションの手応えの原型がそこにはあるのである。」と続ける一節には詩人らしい繊細さがうかがえる。
その一方で、世の中はきっちりしすぎてるんじゃないか「新幹線にしたって、あんなに速いものが十五分に一本ずつ行き交っていて事故がないなんてことの方がよっぽど異様である。たぶん恐ろしく生真面目で責任感の強い人たちが「きっちり」やっているからこそあんな奇跡的な芸当が日常化しているんだと思うけれど、もうあんなことはやめてしまったらどうなんだ」なんて皮肉交じりのユーモアに満ちた文章も同居しているのがこの本の魅力なのだ。
もっともその中にあって愛猫の死を歎く一連の文章は他のエッセイとは位相を異にした位置にあり、読み返すたびに胸を打たれずにいられないのだけど、今回はそこはあえて読み飛ばした。
松浦はことあるごとにケネス・グレアムが書いた児童文学「たのしい川辺」(ピンク・フロイド「夜明けの口笛吹き」のタイトルはここから引用されたもの)への愛着を語っており、この本の中にも何度か出てくるのだけど、現在松浦が読売新聞に連載しているネズミの冒険譚「川の光」はおそらく「たのしい川辺」へのオマージュだと思う(連載には時々しか目を通してないのではっきりとは言えないが)。単行本になるのが待ち遠しい。
投稿日:2006-11-23 Thu
ジムでバイクをこぎながら「戦う動物園」を読んでいたのだけど・・・あれ、ロッカーに忘れていったかな?一汗かいた後は漫画喫茶にて「王様の仕立て屋」を読んだ。
投稿日:2006-11-21 Tue
「涼宮ハルヒの消失」を再読。このシリーズの今のところ一番の出来だろう。世評が高いのも納得。個人的は「うる星やつら」と「脱走と追跡のサンバ」を思わせるところがあるのがお気に入りの理由。昼休みに「いいなづけ」をちょっと読み進めた。すぐビビるダメ司祭に共感をおぼえる(笑)
通勤中はレココレ12月号をずっと読んでいた。
投稿日:2006-11-20 Mon
マンゾーニ「いいなづけ 17世紀イタリアの物語」をこのあいだからぼちぼち読み続けて、中巻の半ば過ぎまで読み進んだ。丸谷才一が激賞している通り、風景描写は美しいし、人物も巧みに活写されて、当時の社会の雰囲気が伝わってきて文句のつけようがないんだけど、読者に親切過ぎる感も否めない。どんなことでもきっちり説明してくれるから謎がなくてこっちを引っ張ってくれない。その分読むペースが落ちている。まあ、これは現代のすれっからしな読者の反応だけどね。
新しい主要人物が登場すると、一旦話の流れを止めてその人物の過去話をするんだけど、こういうところ現在の長編連載漫画を思わせる。ストーリーテリングの王道といったところか。
マンゾーニをまったり読んでいる間に、後から読み始めた呉智英「現代人の論語」を本日読了。これは良い本。奇を衒わず、テキストに真剣に向き合うことでそんじょそこらの「独創的な解釈」などよりもずっと刺激的な孔子像を描いてみせる。まっとうな読みの力を実感させてくれる一冊だった。「論語」を読み返したくなった。
投稿日:2006-11-19 Sun
随分放置していたこのブログだけど、もったいないので仕切り直し。これまでは本について書こうとすると妙に肩に力が入って、あまり書けずにいたけど、今度は気楽に書いていくことにしよう。さっそく本題。
中公文庫で復刊された福田定良「新撰組の哲学」。以前一度読みかけたことはあるんだけど、ピンと来なくて途中で放り出してしまい、その後売ってしまっていた。
復刊されたのを知って、なつかしくなって買い直したのだが、今度は最後まで興味深く読み進むことができた。いわゆる<対話編>のスタイルなのだけど、新撰組を題材にして決して難解な概念や術語を用いることなく、くだけた語り口で記されている。以前はどうってことないように思えた部分を、今度はいちいち頷きながら読みふけっている自分に少し驚いた。本には“読む時期”がある。ようやくこの本を読む時期が来たということだろう。
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